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環境とは、市場化される以前の財、交換可能な「質」として限定されていない財の全体なのである。
それでは、このような環境は、完全に市場化しうるであろうか。
ある財が市場化されるためには、その財が交換可能な「質」として限定されてくる「環境」が前提されねばならなかったしたがって、環境それ自体が市場化されるためには、それを含むより大きな環境が前提されねばならない。
このより大きな環境が市場化以前であることはいうまでもない。
容易にわかるように、環境それ自体を市場化しようとすると、必ず、それを包み込むより大きな環境が現われてこざるを得ない環境問題を、市場化によって解決しようとしても、必ず、より大きな環境問題が現われてくるのである。
環境の全体は、決して市場化し得ない。
環境問題の市場経済による解決は、本質的な限界をもっているのである。
このことは、環境問題が、政府統制によって解決されうるということを意味するものではいささかもない。
政府が直接に資源配分の合理化を統制する場合においても、問題は全く同じである。
なぜ、なら、財を合理的に配分するためには、その財の「何であるか」が同定されておらねばならないが、この時生じる問題は、財の市場化において生じる問題と全く同一だからである。
したがって、環境の全体は、市場化し得ないのみならず、合理的な配分そのものの対象となり得ない。
環境の全体を合理的に管理することは、原理的に不可能なのである。
ここに環境問題の難しさがある。
環境は、いわば定義によって、合理的な管理に服さない。
あらゆる合理的な環境政策は、どこかで裏切られるのである。
これは、環境が、財を含めた、われわれの「何であるか」を決定する、不可避の前提となっているからにほかならない。
われわれは、環境に依存して初めて存在しうる。
そのような存在者には、自らが依存する環境の全体を、合理的に支配することなど、最初からできない相談なのである。
環境問題の本質はここにある。
このような環境問題を引き受けざるを得ないわれわれは、自らの合理性のみを頼りとするわけにはいかない。
自らを超越した何ものかへの、いわば畏れにも似た謙虚さが、あるいは求められているのかもしれない。
(不法行為(外部効果(ハンドの公式(コースの定理(環境の合理的な管理(不法行為法の経済的機能は何かつ(外部効果を市場に内部化するには、どのような手段があるか?(環境の全体を合理的に管理することは可能か?人間が存在する限り、経済開発は不可避であり、それに伴う環境破壊もまた避けられない。
しかし、経済開発は、環境の存在を不可欠の条件としているのであって、環境の全面的な破壊は、経済開発それ自体を不可能とする。
したがって、われわれの取りうる選択肢は、環境の自己再生産能力の範囲内で、持続可能な経済開発を行うこと以外にはあり得ない。
持続可能な開発こそ、人間と環境との共存を可能にする、唯一の選択肢なのである。
このような事情については、第3章において詳しく検討したしかし、そこには、まだ論じ尽くされていない重要な問題が残されている。
すなわち、経済開発が環境にもたらす破壊的な影響が、どのようなものであるかを、いかにして知りうるかという問題である。
経済開発の環境影響がどのようであるかを知り得なければ、持続可能な開発など選択し得ないことはいうまでもない。
第3章においては、開発の環境への影響が確実に知りうることを、暗黙の前提としていたのである。
経済開発の環境影響について知ることは、一見、自然科学の課題であるように思われるかもしれない。
たとえば、開発によって副次的に生産された化学物質が、どの程度の大気汚染をもたらし、結果として、どのような健康被害をもたらすかについての知見は、なるほど、自然科学的な知見である。
開発の環境に対する影響を評価すること、すなわち環境アセスメントが、開発と環境の共存を可能にする第一歩であることはいうまでもないが、開発の環境に対する影響を予測することは存外難しい。
開発の環境に対する影響には、必ず不確実な部分が存在するからである。
この開発の環境影響評価における不確実性を、環境リスクと呼ぶ。
開発の環境への影響の評価が、未来の出来事に対する予測であらざるを得ない以上、環境影響評価における不確実性、すなわち環境リスクは避けられない。
したがって、環境リスクの存在を前提した上で、それを環境影響評価さらには開発政策の意思決定に、どのように反映させればよいのかが問題とならざるを得ないのである。
すなわち、不確実性下における意思決定の問題である。
この場合、開発の環境への影響という因果関係、言い換えれば、事実判断のレベルにおける不確実性を、どのように定式化するかという問題と、そのように定式化された不確実性のもとで、何が適切な意思決定の基準となるかという、価値判断のレベルの問題を区別して考えねばならない。
たとえば、本章において検討した、不確実性下における持続可能な開発を選択する問題においては、事実判断のレベルの不確実性の定式化として、確率微分方程式による定式化を採用し、価値判断のレベルの意思決定基準として、期待効用最大化基準を採用したしかし、もとより、不確実性の定式化においても、意思決定の基準においても、他の選択肢が存在し、いかなる選択肢を採用するかによって、結論として選択される最適開発政策が異なったものになってくる。
ここに不確実性下における決定問題の難しさがある。
すなわち、不確実性をどのように定式化するか、さらにはその定式化のもとでいかなる決定基準を用いるかは、客観的には決定し得ず、主観的に決定するほかはないのである。
この意味において、不確実性下における決定問題は、ほとんど主観的な決断の問題であるといってもいいすぎではない。
しかし、思えば、将来の出来事を決定するとは、そもそも主観的な決断ではなかったのか。
主観的な決断とは、取りも直さず政治的な決定にほかならない。
なぜ、なら、政治的な決定とは、不確実な情報のもとで、将来の大事を決定することにほかならないからである。
それゆえに、不確実性下における環境政策とは、優れて政治的な決定であらざるを得ないのである。
かし、このような科学的知見が得られた時、それをどのように用いて、環境政策を決定していくかは、自然科学の課題ではない。
なぜなら、経済開発の環境影響に関するような科学的知見は、古典力学の因果関係のように確定的なものではあり得ず、むしろきわめて不確定的あるいは蓋然的なものにすぎないからである。
このような場合、科学的知見の不確実性を、環境政策の決定において、どのように評価していくかは、優れて社会理論的な問いとなるのである。
あるいは、経済開発の環境影響に関する科学的知見が、社会理論の対象となるのは、ある経済開発のもたらす環境破壊の規模、程度、水準が、確実には予測し得ないからであるといってもよい。
たとえば、地球温暖化の問題を考えてみると、経済開発によって大気中に排出されるCOzの濃度までは、ほほ確実に予測し得たとしても、それがどの程度の温室効果をもたらし、気候を含めた地球環境にいかなる影響を及ぼすかについては、全く不確実にしか予測し得ない。
われわれは、ある経済開発の環境影響について、きわめて不確実な科学的知見しか得られない状況において、それを制御していかねばならないのである。
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